わかくさモノ造り工房

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ペーパークラフトを中心に創る造る作る

ペーパークラフト雑記05

 <ペーパークラフトの歴史余談・続き>

さて、蝦夷の地を平定し、新政府を樹立した榎本武揚は、本州から北上してくる新政府軍を迎え撃つことになりました。

宮古湾、函館湾における2回の海戦、および松前木古内、矢不来、二股口などの激戦を経て、かの有名な五稜郭での籠城戦となります。これは籠城開始から降伏、武装解除まで約1週間程度で終結しているんですね。

(ワタクシ想像していたのは、鳥居元忠率いる三河武士が伏見城に立てこもって「血天井」で有名な血みどろの戦いをしたり、クリミア戦争におけるセヴァストーポリ要塞のほぼ1年にも渡る包囲戦、はたまた日露戦争のハイライト旅順要塞の激戦のようなものを想像していたのでちょっと拍子抜け)

この時の開城にあたって、降伏を決意した榎本は、オランダ留学時代から肌身離さず携えていたオルトラン著『万国海律全書』(自らが書写し数多くの脚注等を挿入)が自身の処刑と共に失われてしまうのを恐れ、蝦夷征討軍海陸軍総参謀・黒田了介に送ったといわれています。一方黒田はそれらの書物を見て、榎本の非凡な才に感服し、日本国の財産として失うには惜しい人材であると判断しました。その熱心な助命嘆願活動により榎本は一命をとりとめたものの、さすがに内乱の主犯(新政府側から見て)、無罪放免とは行きません。案の定投獄されることとなりました。

 

 

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明治2年(1869年)6月30日 投獄された榎本は、牢名主と相対することとなります。明治時代になったとはいえ、牢獄といえば時間が止まったような場所。当然江戸時代の風情が色濃く残っていたことは容易に想像がつきます。

この時代の牢獄は奥のほうに畳を重ねた上座があり、そこに牢名主が陣取っています。その前には牢名主の手下、三役と名乗る者たちが並びます。新入りはまず牢名主の前で正座させられ、名前、出身、ここに入れられた経緯、罪状などを告げます。罪状に関しては、罪が重いほうが牢の中では重宝されるそうで、スリ、コソ泥、かっぱらいなどの軽犯罪は軽蔑されるそうです。

(以下、著者の脚色 なぜか関西弁)

主「おい、新入り、どこから来たんや」

牢名主に詰め寄られた榎本サン

榎「箱館じゃ」

牢獄とはいえ、娑婆の情報もある程度は入っていたはず

主「箱館ちゅうたら、新政府軍が賊を攻めたてとるんやないか」

主「わしらからしたらどっちが賊か分からんけどな」

一同(笑い)

主「蝦夷のほうでは、なんや榎本っちゅうのが、お国を作ったそうやないか」

主「ほんで戦のどさくさに紛れて、その辺に転がってる鉄砲でも掻っ攫って捕まったんか?名前は?、何やらかしたんじゃ」

榎「榎本と申す、箱館の総裁の座にあったが今はこのとうりじゃ」

主「ほなら賊軍の頭やないかい!!」

畳の高座から転げ落ちるように這いつくばる牢家主

お互い顔を見合わせる囚人一同・・・何が起こったかよくわからない様子

それもそのはず、「悪事」の重大さで牢内の序列が決まるようなコミュニティ。日本国を相手取って戦った反乱軍の頭領ともなれば、通常の罪状では計り知れないほどの大悪人ですよ。一般の人々にとってピンと来ないのも当然です。

ただそこはそれ牢名主ともなれば事の重大さを認識していたのでしょう。あるいは元々任侠道の世界で生きてきたような荒くれ者にとっては、なんかもう講談本の中からでも飛び出してきたような英雄・豪傑の類に見えたのかもしれません。

即座に牢名主を譲り受けた榎本サン、その後は他の囚人達も事情を呑み込めた様子で、獄中生活は平穏無事に過ごせたということです。

それどころか牢名主として食事の世話や、その他生活の面倒を見てくれる手下が大量にできたようなもので、相当自由な時間があったのではないかと推測します。

となるとここでも彼の才能が遺憾なく発揮。その知的好奇心は留まるところを知りません。獄中は読書を許されていたので、ひたすら差し入れされてきたあらゆる書物を読み漁っていきました。当然洋書だろうが外字新聞だろうがお構いなし、辞書もなく「朝の一服にちょっと新聞を」くらいのノリで、まぁ読むわ読むわ。獄中に居ながらにして当時の最先端の情報を余すところなく吸収していったことでしょう。

当初は危険思想の恐れによるものと思われますが、著作、著述などは認められていませんでした。ところが牢番などとも懇意になるうちにそれらも黙認されていったようです。するとまぁ今度は書くわ書くわ、今まで得られた知識の中から、今後の日本の殖産興業に必要なものを後世に残すために次々と情報をまとめていきます。それだと理系の堅物かと思われますが、漢詩などにも精通しており一流の文学者でもあったようです。

さらにそこで終わらないのがこの人のすごいところ、榎本が居る牢屋の他にも複数の部屋があり、牢屋同士は声が筒抜けになっていました。またそれぞれの部屋には函館戦争を共に戦った幹部も何人か収監されており、今まで得られた知識・情報などを彼らに講義していたというから、もう何が何だか。囚人なのか、軍人なのか、研究者なのか、語学者なのか、科学者なのか、文学者なのか、大学講師なのか分かんなくなってきますね。っていうか牢獄内のグダグダ感っつーかフリーダムさも凄いww

前置きを長々と綴ってまいりましたがいよいよ本題に入ります。

今まで得られた知識や情報を後世に残すために人生の大部分を費やした榎本サン。著述などで文字や図面など、二次元で表現するだけでは物足りなくなってきました。おそらく当時の一般人には伝わりきらないことを恐れたのでしょう。

ナント!!機械などの図面から、立体化・三次元化を試みます。この逸話を某TV番組で知った私は目を疑いましたね。

これって・・・

これって・・・

・・・

ペーパークラフトじゃぁねぇかぁぁぁぁぁ!!!!

(これが言いたかった・・・もう満足でふ)

そうです!、何も無いはずの牢獄で使える資材といったら、そう紙。著述に使用していた半紙しかないんです。

それにもかかわらず、大規模な卵の人工孵化器の製法、ガルファニー鍍金鍍銀(金銀メッキ)法、薬水の製法、藍の取方、新式の養蚕法、ガラス鏡の製法、硫酸の製法、ブランディーの蒸留器、もうなんでもアリですわ、気が遠くなりますわ。中には獄中の研究で開発、発明したものもあるとか。確かにそれだと現物は存在しないので、たとえ紙で作ったものだとしても、立体化のほうが正確に伝わることでしょう。

さらにこのノリは他の部屋の仲間にも伝わって、みんな設計図や模型を作り始めます。

ある時、砲術の専門家だったある仲間が、あろうことか地雷の模型を作って大目玉食らったとか。

もうなんだかペーパークラフトの発表会か講習会の様相を呈してきてますな。ここって牢獄ですよね? ね?

 

以上のことから、榎本武揚という偉人を知るにつけ尊敬の念がどんどん湧き上がっていきます。

ペーパークラフトに携わる人間として、彼は師匠であり、神のような存在。

そう! 紙の神!!

・・・

・・・

 

いや、何でもない・・・

とまぁ自分勝手に決めて勝手に崇拝しているこの頃でありました。

 

 

 

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さてさてその後の榎本サン

1872年、特赦により出獄した榎本は、開拓使として北海道鉱山検査巡回を皮切りにその才能を遺憾なく発揮していきます。

1874年 駐露特命全権公使となりサンクトペテルブルグに赴任、翌年にはあの有名な千島・樺太交換条約を締結

1878年 帰国後は外務省二等出仕、外務大輔、議定官、海軍卿、皇居御造営御用掛、皇居御造営事務副総裁、駐清特命全権公使、条約改正取調御用掛等を歴任

さらには6つの内閣で逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任

新生日本の屋台骨を縁の下から支えまくる一方で、戊辰戦争で救えなかった旧幕臣やその家族子弟の救済にも腐心します。徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)を創設し、物心両面で後進を支え続けたと言われています。

もうなんつーか 滅私奉公を絵にかいたようなアニキっぷりですよね。一生付いていきますぜ!