わかくさモノ造り工房

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生涯をかけてアメリカスカップに挑み続けた「紅茶王」サー・トーマス・リプトン

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今回はアメリカスカップにまつわる人物のお話です

どこかで聞いたことのある名前だな、と思ったアナタ

そうです!

日本の食卓でもお馴染みの「紅茶のリプトン」創始者です

f:id:wakajibi2:20210127175205p:plainサー・トーマス・リプトンとは? | Sir Thomas LIPTONより


紅茶商とヨットレース

いまいち関連性が無いように思えますが、実はサー・トーマス・リプトン

ヨット大好きなんです、っていうか結果的に紅茶ヨット、どちらも生涯を賭ける程入れ込むことになります

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まずは彼の生い立ちから紹介しましょう

幼少期より小さな食料品店を営む両親の手伝いをしていた彼は、頻繁に港まで出かけ、店舗に並べる商品を受け取っていました

海の向こうからやってくる帆船に憧れ、いつしか自分の船で世界中を旅行する夢を持つようになりました

そのころには自作の木彫りヨットで友人とヨットクラブを結成していたとか

船の名前はシャムロック(shamrock:アイルランド語でクローバーの意味)

この名前、よく覚えておいてください

 紅茶商を始める遥か前の話ですので、リプトン卿ご本人の歴史でみると、実は紅茶よりもヨットの方が関わりが古いのです

 

貧しい家庭で育った彼は、10歳の頃から自力で学費を稼ぎ夜学で勉強

13歳の時に蒸気船のキャビンボーイの職に就き

15歳で両親の反対を押し切り、単身渡米します

18歳でニューヨーク百貨店の食料品部門に就職

19歳には退職し、故郷のグラスゴーに戻ります

若気の至りで故郷を飛び出し、勢いに任せて家業に関わる武者修行をしてきた感じです

なかなかの苦労人です

サー(Sir)の称号が有名なもんで、てっきり世襲貴族の方だと思っていたのですが、平民からの叩き上げだったんですね

 

帰国後はご両親の手伝いをすることになりますが、経営方針の違いから早々に独立することになります

この時21歳

 

今で言うところの「イノベーション能力」が極めて高い人材

当時はまだ珍しかった、ユーモアあふれるイラスト入りの広告を使って自分の店の宣伝を行いました

また、現在では普通に行われている当たり付きのお菓子の概念も取り入れました

お店でジャンボチーズを作る過程を店頭で披露し、その中に金貨を混ぜ込みます

「チーズの中に金貨を見つけた人は幸運に恵まれる」という噂を流し(元々その地方にあった言い伝えという説もあり)で売り上げを伸ばしたそうです

(´-‘).。oO(賞品と交換では無いのね・・・まぁ金貨ならそれが賞品か)

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次々と食料品店の店舗を拡大していくトーマス

彼が紅茶の事業に参入したのは1888年 39歳の時です

始めは流通業者との仲介で取引を行っていましたが、当然のことながら手数料などを途中で抜かれる訳ですよ

これを不満に感じた彼は、自ら直接茶葉を買い付けるようにしました

「商品は必ず生産者から購入せよ」という母親の教訓もありました

すると今度は品質の保証ができないため、ブレンダーと呼ばれる専門家を雇い、良質な茶葉を安く仕入れることができるようになりました

またこれまでは「ひと山ナンボ」で量り売りしていた茶葉を、あらかじめブレンド、個々に包装しておき、いわゆる「ティーバッグ」の形で売り出したところ、これまた大ヒットしたのです

<広告:リプトン イエローラベル ティーバッグ>

 

さらにはセイロン島の茶畑を丸々買い上げ、首都コロンボにはブレンドとパッキングの工場を設けました

つまり茶葉の栽培、紅茶の生産、品質管理、包装、流通、小売り、すべてを自社で行い、それまで貴族の独占嗜好品であった紅茶を一般庶民でも手が出る価格まで押し下げたのです

御母堂の教訓のさらに上を行ったわけですね

同じお茶の株でも生産地の水質によって品質が異なることを発見したトーマスは、それらを適切にブレンドし、常に「最高の紅茶」となるよう努力し続け

「茶園からティーポットへ」

スローガンの元、世界中の食卓に上質で新鮮な紅茶を届けることができるようになったのです

(ちなみに、日本にこのリプトン紅茶が初めて輸入されたのは1906年とのこと)

 

このような商業活動がヴィクトリア女王に認められ、「英国王室御用達」の勅許状を与えられました

また莫大な利益を得るようになったトーマスは慈善団体への寄付や貧しい子供たちへ紅茶を配るなど慈善事業にも熱心に取り組みました

欧米社会での基本的な道徳「ノブレスオブリージュ」ってやつですかね

王室の慈善事業にも寄付を行い、ナイト(knight:中世の騎士に相当する貴族階級)の称号を与えられました

「サー・トーマス・リプトン」と呼ばれ始めたのはこの頃からのようです

最終的には準男爵(バロネットbaronet)に

このあたりの凄さは、我々日本人にはピンと来ないのですが、まぁしょうがないww

 

これら紅茶ビジネスは、後にイギリスの国益ともなる大事業に発展していくことになります

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さて、その一方

事業を法人化し、名誉職となったトーマスはいよいよ幼いころのもう一つの夢に挑戦しすることとなりました

それが「アメリカスカップ」への参戦

 

以前お話した「ワイト島1周レース」以降、第1回~第9回までの大会ではいずれもアメリカスカップを取り戻すことができていない英国チーム

サー・トーマス・リプトンは1899年(第10回)~1930年(第14回)になんと連続5回にも渡ってアメリカのNYYCからカップを奪還すべく挑みます

挑戦艇の名前はもちろん「SHAMROCK」

(´-‘).。oO(三つ子の魂なんとやら・・・)

毎回新しい艇で挑みましたので、それらの船はナンバリングされてSHAMROCKⅠ~Ⅴ

f:id:wakajibi2:20210127182649p:plain常識を覆した起業家、サー・トーマス・リプトンとは? | ユニリーバ | 東洋経済オンライン |より

ご自身の夢でもあった由緒あるヨットレースへの参加

ヴィクトリア女王の宸襟を安んじ奉るための意気込みもあったでしょう

(´-`).。oO(日本的な尊敬表現を英国王室に使うのが適切かどうかは不明)

もちろん「紅茶王」として、アメリカにリプトンティーを広めるための宣伝広告の目的も兼ねていました

 

結果としては、一度も勝利すること無く終わるのですがその不屈の闘志は相手国アメリカのニューヨーク市民を感動の渦に巻き込み、その寄付によって宝飾店ティファニー製作の「ゴールド・カップ」を贈り「勇敢なる敗者」としてその検討を讃えました

6回目の挑戦を宣言したトーマス卿でしたが、残念ながらその直後にこの世を去ってしまったのです

 

現在では「リプトンカップ」と銘打ったヨットレースが開催され

f:id:wakajibi2:20211229182415p:plain

https://liptoncup.com/より

その偉業が語り継がれています

(ちなみにこのカップは上記ゴールド・カップとは別)

 

ここが面白いポイント

アメリカスカップ」の歴史を通じて、優勝者ですら個人名が有名になることは稀です

ところが、一度もアメリカスカップにおいて勝利できなかったにもかかわらず

サー・トーマス・リプトンのみ、その個人名がレースの名称となって今に伝えられているところが今回のお話しのミソ

勝ち負けにこだわることはもちろん大事ですが、リプトン卿は不屈の闘志美味しい紅茶を後世の我々に残してくれたのです

Sir Thomas Lipton

偉大なる船乗りに思いを馳せつつ、せっかくなので肖像をモノトーンアート調に描き上げてみました

ダンディーな渋さが表現されていますでしょうか?

彼は、今でいう「勝負服」の意味合いで水色の水玉模様のネクタイを愛用していたそうです

(´-‘).。oO(はいっ もう一回↑冒頭の肖像写真もチェック!!)

いやー、オシャレですねー

 

皆さんも、台所にあるリプトン紅茶を飲む際には、アメリカスカップに生涯をかけたイギリス紳士、サー・トーマス・リプトンの偉業を思い出してみて下さい

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なぜこのイギリス紳士の話を持ち出したか?というと

前回紹介した「バルキリー2

その後、巨大化を続けたアメリカスカップ参加艇は、新たなクラスルールによって

「Jクラス」という形に収束していきます

5回に渡り、アメリカスカップに挑み続けたリプトン卿の船「SHAMROCKⅠ~V」がちょうどこの時期にぴったり当てはまります

 

 次の予定はリプトン卿が最後の挑戦で使用した「SHAMROCKV」=「Jクラス」(なんと現存しかも現役)

この最も美しい(著者基準)船型を持つヨットのお話をしましょう

 

次の記事はこちら

wakajibi2.hatenablog.com

 

 

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加熱するセイル巨大化競争 アメリカスカップ草創期

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 引き続き、私の趣味バリバリの話題で参ります

軽~いノリで読み進めてください

 

前回は、軍用艦としては絶滅してしまった帆船について、でして

物語としては完結しました

本編では船のキール変遷を軸に、生き残った帆船がどのような進化を遂げていったか

というお話を続けていきましょう

 

これまでのおさらいです

帆船の終焉とされる時代

「アメリカスカップ」の由来

カナダの有名な漁船兼レーサー

と紹介してきました

 

当時ライバル同士であった、太陽の沈まぬ国大英帝国と新進気鋭のアメリカ合衆国

数年に1度開催される世界最古の近代スポーツ大会

その名も「アメリカスカップ

f:id:wakajibi2:20200603162928p:plain「100ギニーのロイヤル・ヨット・スクォードロン・カップ」改め「アメリカスカップ」- Wikipedia

 

このカップを巡って熾烈なレースが繰り広げられていた19世紀後期 

第1回(1870年)、第2回(1871年)、第3回(1876年)と

ここまでの大会は、元祖優勝艇である「アメリカ号」とよく似た形の2本マストスクーナーが主流であり、船型に大きな変化はありませんでした

 

その後クラスルールなどの整備により第4回(1881年)大会からは1本マストのヨットに変更されました

f:id:wakajibi2:20210120190240p:plain

それぞれ代表的な船を提示しています

 

そして今回ピックアップするのは1本マストタイプ(初期)の代表格

第9回(1893年)大会で惜しくも敗れたヴァルキリー2(Valkyrie2)です

なぜこの艇を選んだか、というと

名前がカッコイイからです

 

以前の記事で紹介したBluenose(漁船)よりも、さらに船底部分が中央に圧縮されてきており、海中深く突き刺さるようにキールが伸びてきていますね

f:id:wakajibi2:20210122081359g:plain

(´-‘).。oO(画質が荒いのはファイルを軽くするため、いずれYouTubeにまとめる予定)

(´-‘).。oO(キール形状の変遷を中心に追っているので建造年代が前後するのは気にしないように)

このように、今までは船底の構造材でしかなかったキールは横流れ防止の安定板的な役割も持つようになってきます

ちなみに時代が進んで安定板としての役割だけを抽出するとこういうことになります↓

 

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一方、水上の形状はというと

当時のクラスルールは艇の水線長セイル面積の2つのパラメーターのみで計算されるので

(´-‘).。oO(ちゃんとした計算式もあるのですが、解説できるほど理解が深くないので割愛)

前方ではバウスプリットを目いっぱい突き出し

後方ではブームを目いっぱい伸ばして

f:id:wakajibi2:20210122084850p:plain

とにかくセイル面積を大きく稼ごうとする形状になってきます

当然セイル面積が大きい方がより多くの風を受けることができ、推進力が増すのは容易に想像がつくでしょう

それに対し船体は相対的に小さくなっていき、いつしか非常に不安定な船ばっかりが出来上がるようになりました

重大な事故が起こったという記録は見当たりませんでしたが、危惧はあったものと思われます

 

このような対策として新たなクラスルールが策定され、より洗練されたヨットが出来上がっていくわけですが・・・

(´-‘).。oO(ちゃんとした計算式もあるのですが、解説できるほど・・・以下略)

 

次回 アメリカスカップに深く、長く関わる、ある人物の紹介をしたいと思います

皆様の家庭の食卓に少なくとも1回は登場したことがあるであろう商品、あのイギリス発祥企業の創始者です

意外と知られていないヨット狂で、とても熱い物語の主人公となります

 

次の記事はコチラ

wakajibi2.hatenablog.com

 

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表題の「草創期」

物事の始まりの時期を表す言葉で

雑草が無秩序にひたすら伸びていく様が、今回のセイル巨大化競争にピッタリ当てはまるような気がして使ってみました

この後もイギリスとアメリカの因縁は深まるばかり

第二次大戦後には2国以外の国も参加するようになり、アメリカスカップは混沌を極めるようになります

これはもうちょっと先の話

 

 

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